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若き日のヨーロッパ旅行記

1973年。真冬(2〜3月)のヨーロッパを1ヶ月間旅行しました。
30年近い「昔の旅行記」です。記憶間違いもあるかもしれませんがご容赦を!

建設工業調査会主催のヨーロッパ研修に参加しました。参加費60万円は勤務していた事務所から出していただきましたが、当時の私の年収より高額でした。当時私は27歳、次男が生まれた直後のことで、30万円の小遣いは「我が家の全財産」だったと思います。(申し込み直後にニクソンショックがあり、為替レートはフロート制に移行。1ドル360円で用意した費用がレート変更で一気に増える幸せがありました)

羽田から南回りで、ヨーロッパに向う。途中、フィリピン-バンコク-ニューデリー-ベイルートを経由。フィリピンでは、ドアから出た瞬間「熱風」に驚く。空港建屋はバラック同然でした。「DC8機」は、夜を追いかけるように飛んでいく。中継の空港に到着するたびに「夜食」が出て、いきなり食べすぎとなる。バンコクでも、ニューデリーでも既に「異国」を味わっていた。ベイルートでのトランジットでは、両脇から軽機関銃を突きつけられてボディーチェック。ここが紛争の地であることを知る。

25時間の飛行を経て、ギリシャに到着。忙しい「ヨーロッパ旅行」の始まりです。

アテネ/パルテノン宮殿

エーゲ海/ミコノス島

エーゲ海/ミコノス島
アクロポリスのパルテノン宮殿に向う。アテネ市内のどこからでも見えるフォルムの美しい宮殿です。
しかし、近くに行って驚きました。この宮殿は「神様のスケール」で作られているのです。遠くから見ると「均整の取れたフォルム」も、石段の1段が40cm以上あります。宮殿の遺構に入るには、石段をよじ登る必要がありました。

エーゲ海に浮かぶ真珠のような島「ミコノス島」に向う。
が、交渉が難航している。どうやら「嵐が近づいて」ようで、ほんの数人乗りのエアタクシーで、島に向うのは「相当の冒険」らしい。それでも強行!エアタクシーは、風に煽られる木の葉のように揺れながら、風車(スケッチ左)のある未舗装の小さな空港に無事ついた。
ミコノス島は美しかった。
漆喰の白さが、一生目に焼きつく程の美しさである。現に嵐が来ている、風雨に晒されるだろうにこの美しさの秘密はなんであろう。答えは簡単であった!「毎年、漆喰を塗っている」そうだ。この美しさを守るため「最大の努力」がここにはあった。
壁だけではない、道路も漆喰で白い。所々にある原色、街そのものが芸術であった(スケッチ右)。

流石に、帰りはエアタクシーが飛べないと言う。いきなり緊急事態です。
沖合いを行く、地中海をクルーズする豪華客船に連絡を入れ、交渉成立。荒波を数人乗りのボートで客船に向う。セスナ機に続いて「遭難か!」と思わせるものでした。
こんなハプニングで、地中海クルーズの豪華客船に乗れたが、豪華なキャビンの端から端まで、椅子に座ったまま走るほど揺れている。約60名の参加者中、客船でのディナーを楽しめたのは私を含めて「ほんの数名」であった。深夜、アテネのホテルに到着。これでギリシャの予定は終わり。

翌朝、アテネからローマ・ミケランジェロ空港に向う。
私だけ、登場チケットの色が違い「入口が違う」と注意され不安になる。何と、私だけ航空会社の都合でファーストクラスにまわされたのだ。座ると、リストが渡された。わけもわからず指差すと「コニャック」が出てきた。当時まだ酒に弱く、やっとの思いで飲み干すと「直ぐに注がれて」しまう。キャビアやフォアグラを載せたワゴンが巡回し、至れり尽せりの空の旅となった。私は、千鳥足でローマの地を踏んだ。

ローマ/スペイン広場

ナポリの城/カステルルオー

ナポリの昔の監獄
ローマでのホテルはスペイン広場に近くでした。
遺跡だらけローマ市内を避け、郊外で「新都市」を作っていたが、味気ない建物群でした。イタリアはポンペイの埋没で知られるように、火山があり地震国です。しかし、建物構造を見ていると「耐震設計」をしているとは思えません。随分簡単な作り方に驚いたものです。
旅行の全工程を通じて「昼・夜」はフルコースの予定でしたが、初日ギリシャで嵐のハプニングがあり、ヨーロッパのフルコースはローマが初めて。貧乏な私には感激の食事でした。でも、朝は「コンチネンタルブレックファースト」つまり、コーヒーとパンだけ。
(両手に、コーヒーとミルクのポットを持ったウエイターが、勢いよく注いでくれます。とっても美味しいカフェオーレでした)食べても食べてもお腹の空く私は、朝食のパンをくすねて移動用のバスに乗ったものです。水は高く、1升500円ほどで買える「美味しいワイン」が水代わりでした。

ローマを拠点にナポリとポンペイに旅行。
道路に突き出された洗濯物。猥雑なナポリをそこそこで通り過ぎ、メインエベントはポンペイです。
古代ローマ時代、イタリア半島のナポリ湾に面したポンペイは、農業や貿易で栄え、1万数千人が暮らしていました。、しかし西暦79年、ヴェスヴィオ山が噴火し、6メートルもの火山灰の下にまるごと埋もれてしまいました。18世紀に始まった発掘で、地中からは舗装された道路や公共広場、闘技場などが次々と姿をあらわしました。2000年前、ポンペイの人々は商売、選挙、娯楽などが盛んな豊かな都市生活を送り、水道や医学など優れた技術をもっていたのです。
整備された公共施設に、古代ローマの文化の高さをまざまざと見る思いでした。

ローマでは、カラカラ浴場やコロセウムを見学。バチカン公国サンピエトロ寺院も見学。高校で習った世界の建築史の「その場」に立った感激を味わう。
ウインドショッピングも楽しみでした。今では、システムキッチンが当り前になりましたが、私がシステムキッチンを見たのはローマが初めてでした。

聖ヴィターレ教会

ローマを後にして北上する。
ピサの斜塔で知られる「ピサ」や、ラヴェンナにあるモザイク画発祥の地として知られる「聖ヴィターレ教会」を見学して、フィレンツェ に向う。
フィレンツェは、ルネッサンスの象徴として15世紀から16世紀のメディチ家支配下において、経済的・文化的な繁栄を謳歌しました。ジョットやブルネレスキ、ボッティティチェリ、そしてミケランジェロといった芸術家達の手によるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、サンタ・クローチェ教会、ウフィツィ宮殿、ピッティ宮殿といった建造物は、この都市の600年の歴史における最も素晴らしい芸術品なのであります。
ミケランジェロをはじめとする芸術家が、メディチ家と言うパトロンを得て「花開く」そんなことを感じながら旅は続く。

フィレンツェからヴェネツィアに向う。
ヴェネツィアは「水の都」として知られるが、水没の危機に晒されていた。海辺にある「サンマルコ寺院」が満潮時に床上浸水となる。

サンマルコ寺院



ヴェネツィア「水の都」風景

ヴェネツィア「水の都」風景
ヴェネツィアに入って知ったことがある。
ここでの交通機関は「船」なのです。この街には車はない。川に寸断されて、走りようがないのです。「歩行者天国」をこの街で始めて味わった。
この街は、イタリアでもっとも印象に残ったが、水没の危機はその後どうなったのであろうか?

さらに北上を続ける。
アルプスの麓チロル地方の「コルチナダンペッソ」を通過。おとぎ話に出てくる風景そのままだ。全く「メルヘンの世界」に迷い込んだような気持ちになる。この地方独特の建築様式があるのだが、なんとなく「白川郷」を思い浮かべる。雪深い地方の生活様式は世界共通なのかもしれない。

目的地はドイツ。

シュツッツガルトより
フランス側をスケッチ

インスブルグ
途中、オーストリアで1泊。ここは国境の町「シュツッツガルト」です。
レストランに入るも言葉は全く通じない。スケッチブックに「スープ・パン・ステーキ」の絵を書いて注文。ウイスキーはなくビールを飲む。当時、オーストリア(社会主義政権だった)ではウイスキーは禁止だったそうな。

ホテルの傍にある湖の向こうは「フランス」
フランス側にはカジノがあり、出かけてみました。ルーレットで私のラッキーナンバー「27」の1本賭けで勝利。後にロンドンでダイヤに化ける。勿論愛妻への土産である。

この時期「厳冬期」
団体旅行で移動中のスケッチだけに、1枚にかけられる時間は15分前後。短いものでは5分のものある。ここに掲げるスケッチは、全くの雪の中で書いたもです。指が凍えて動かなくなる前が勝負です。


ミュンヘンにて
ついに「ミュンヘン」に入る。
ミュンヘンでは、春を迎えるお祭りをやっており、市役所前のメインストリートは、ホコテンになっていた。様々なグループが露天を開いており、自由市場の様相です。だが、日本人の店はなさそうなので「描きためたスケッチ」を並べて、左側のスケッチを描きだした。本当に客が現れ急いで退散。
左翼で警察から追われ、日本を脱出したと言う「怪しげな風体」の日本人と出会いビアホールに行く。私だけではとても行けそうもない「観光用ではないビアホール」で、楽しく過ごしました。
ドイツからスイスに向う。ベルンまで列車。
ヨーロッパ最高峰のマッターホルンに登る。エレベータで山頂まで行き、そのまま帰る。山頂で、私の持っていたアサヒペンタックスは作動したが、バカチョンカメラは「凍り付いて」全滅。残念ながらユングフラウにはいけずだった。
ベルンの街も「おとぎの国」のようだった。この後チューリッヒに向かい、一人歩きでWHOを見学。帰途、地図を無くしたことに気付き難儀する。ご婦人に「英語は?」とお尋ねしたら「ドイツ語は?」と聞き返された。
スイスで思いっきり「水」を飲む。ヨーロッパで唯一「水がタダの国」

ロンシャン教会

ロンシャンへの道

ロンシャンの食堂で
スイスから、フランスにある「ロンシャン教会」を見学に向う。
ル・コルビジェの代表作。全く山深いところにあるのに、あのモダンな建物が全く溶け込んでいる。巨匠とはこう言うものかと感心した。山道に歩きつかれ、何の変哲もない「田舎町の食堂」に入る(レストランと言う雰囲気ではない)。常にホテルのフルコースだっただけに、結構新鮮な思いがした。

スイスからフランスを経由して、ピレネー山脈を越えでバスク地方に入る。
ここは、スペインでも「異端の地」で、当時まだフランコ政権下でもあり「相当治安が悪かった」筈だが、何も知らないものの強みで、強引に頼み込んで民家などを見せてもらった。

バルセロナに入る。アントニオガウディーとのご対面だ。

コルドバ/メスキータ

マドリッド/レティーロ公園
スペインについては、当HP「スペイン紀行」に詳しく掲載していますのでご覧ください。ただ、2度目のスペイン旅行では体験できなかったことを少し…

マドリッドに首都が移るまで、トレドが800年に渡り首都であった。完璧な城塞都市で必見であるが、2度目のスペイン旅行は「社員旅行」で、いくことができなかった。
トレドは、宗教戦争の最後の砦であったため、日本の城下町のように「迷路」で構成されている。
迷路の角々が「小広場」になっており、様々なパフォーマンスが行われていた。ただ、ここでも「日本人がいない」
そこで、ホテルからギターを借り出し、ツアー参加中に友人となった人にギターを弾いてもらい「喉を披露」した。勿論、心は「大道芸人」です。差し出した帽子に「それなりに小銭が入り」私は大満足でした。
元「グリー」としても残滓がまだあり、結構「いけた」と思っている。

スペインではグループから外れ「一人旅」をしてみました。
街角のバルで食事をした記録があり、楽しかったことが蘇ってきます。若さゆえに出来たことが多い旅だったように思います。

マドリッド中心にあるレティーロ公園。
大規模で大変美しい公園でしたが、2度目の旅行では「危険につき立入禁止」となっていました。何でも、ジプシーに占拠され、犯罪の巣窟になっているとかでした。確かに、私が最初に行ったときも結構物騒でして、スケッチの最中に「猛犬を仕掛けられ」難儀した記憶があります。

駆け足旅行ですが、イタリア・スペイン・フランスがメインになっていました。
ところが、フランスの空港が全面ストで「パリには入れない」ため、急遽ベルギーに行き、パリへ入る道を探ることになりました。結局、4日の予定が「1日半」になり、ルーブル美術館・モンマルトルの丘・カタコンブ(お墓)の見学に止まりました。夜のシャンゼリゼを散歩し、ムーランルージュも体験しましたが、予定が狂って「お疲れ気味」でした。

イギリスが、事実上の最後。
ハイドパーク近くにホテルがあり、ロンドンでは主な観光コースのほか、再開発地区の見学がありました。1日、足を伸ばし「ケンブリッジ」を旅しました。大学には縁のなかった私ですが、日本の大学と随分違うなと思ったものです。
ハイドパークで「変なフランス人」と知合った。お互い訛りの強い英語で意気投合。パブに繰出し一杯のみました。この機会がなければ「身分差別の強い」パブに行くこともなかったと思います。

ロンドンからアムステルダムに出て、いよいよ帰国です。
「もう、終わりか…」これが私の印象でした。一度も日本食を口にせず、何の苦痛もなかった1ヶ月でした。

この旅行(研修)がその後、大いに役立ったことは言うまでもありません。
「おまえは贅沢だ」といわれながら、ちょっと余裕ができると、社員を海外に連れ出した原点がこの旅でした。
『百聞は一見にしかず』
見ることです。体験すべきです。それも『若いうちに』