阿蘇探鳥旅行
12月1日 柳川
「探鳥旅行」と名をうってはいるが、野鳥がいるとはハナから信じていない。
実際に出会ったのは~カササギ・カラス・ヒヨドリ・ムクドリ・シロハラ・スズメ・シジュウカラ・ヤマガラ・キジバト・カルガモ・トビ~と、カササギ以外は何処にでもいる野鳥だけ。そんなわけで野鳥の写真は1枚もありません。まあ~「予定調和」でした。

 12月1日(火) 
4時半に起きて、5時半に家を出ました。関空7時発のpeachで福岡へ向かいます。
真っ暗な中、関空の駐車場を間違えて、第2ターミナルから遠い駐車場に入ってしまった。いきなりの「想定外」です。ただ、一方通行だらけの空港敷地内のこと、一旦出て「空港を一巡」するほどの時間はない。荷物を持って「急ぎ足」で移動でした。

定刻フライトで福岡到着。乗客は3割ほどでした。
私の20代は、常に搭乗券を財布に入れているほど出張が多かった。特に九州に現場が多く、良く通ったのですが「阿蘇は初めて」です。

更に言えば、福岡空港へ降りるのは、約半世紀ぶり。当たり前ですが、当時の面影なぞ、何処にもありません。

駅前でレンタカーを借り「柳川」へ向かいます。以前から「一度行ってみたい」ところでした。

高速道路「九州道」は、実にトラックが多い。まさに「産業の動脈」でした。
九州道「みやま柳川」でICを降りる。ここからは一般道です。

途中「道の駅みやま」でトイレ休憩。ここは、道の駅というより「産直市場」でした。
野菜が安くて「なんと美味しそうな」です。ここは帰路にわざわざ立ち寄り「大きなセロリ」を買って帰ることになりました。

柳川は「立花氏の城下町」です。
西軍に参加し、関ヶ原では「負け組」になり浪人となる。

かわりに入府したのは田中氏。
田中吉政(たなか よしまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。筑後国柳河藩初代藩主。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。
水路を張りめぐらせた「柳川」を造ったのは、「土木の天才」と言われた田中吉政の手による。
今でも柳川市民に慕われてる田中吉政だが、治世は彼1代で終わっている。
その後は、家康に仕えた立花氏が入府して江戸時代が終わるまで続く。

柳川は「水郷の町」で、水路の総延長は40kmにも達するという。
柳川下りは、柳川城の外堀と内堀の一部4kmを手漕ぎ船で楽しみます。

水郷は「誰でも楽しめる」そうで、個人所有の船も多かった。ただ「エンジン付きは不可」だそうです。
では、写真で柳川を紹介します。
12月1日(この日)から、船に炬燵が入りました。ただ、この日はうららかで、炬燵は要りませんでした。

柳川は水郷の町で「うなぎ」が有名です。
川下りのあいだも、良い香りが漂ってきました。もう一つ有名なのが「北原白秋」です。柳川は白秋の生まれ故郷で、20歳までいたそうです。
水郷に沿って、左のような「歌碑」がたくさんありました。
沖ノ端川から水を引き有明海へ流す水路です。

川下りでは、12の橋の下を通過したのですが、どれも低い。
有明海へ水を流すため、潮位に影響されるそうで、水位が上ると「頭を打つ」までになる。雨で水位が上がることもあるそうで、「橋の通過が不可」になると、運航中止だそうです。

柳川古文書館(写真右)を過ぎて、間もなく柳川城外堀へ入ります。
上の写真は外堀へ入る「水門橋門」です。流石は「水の城」ですね!
橋をくぐるたびに「風景が一変する」のが楽しいですね。

水郷は「生活の水」だったわけで、川に向かって各戸から石段がある。洗い物から、船着き場として「物資の搬入」も行わていた。
また、堀の一部を庭に取込んでいる家もありました。
今はもう違いますが、かつて水運を利用した製造業も多かったのですね!蔵や工場が並ぶ地域もありました。
有名なレンガ作りの「並蔵」を見ながら、内張へ入りました。
川下り中もマスク。なんでここでもマスクが要るのかねえ~
日吉神社付近には茶屋がありました。甘酒吞みたかった!

作業着姿の田中吉政像(写真下)

内堀は「視界を遮る雁行」が多く造られていました。城下町における「あて曲げ」の手法です。
ちなみに、柳川城は「熊本城以上に難攻不落」と言われたそうです。
船は、藩主の邸宅があった「現・御花」を1周するかのように進む。御花は、今は料亭として活用されているそうです。

柳川城は、明治の初めに大火で失われてから、柳川城址の名はあるが「遺構は何もない」そうです。石垣すらなく、二の丸跡や本丸跡は「学校」になっている。
再建話はあるそですが、学校移設から必要で、仮に再建となっても「まったく別の場所で」と言うことになりかねない。
御花にある「殿の蔵」わきを通り、最後の橋「沖ノ端橋」をくぐると、川下りの終点です。

ここで下船して、うなぎと白秋生家へ参ります。

行程4km70分の船旅でした。
4kmなら、多くの施設や名所を巡りながら歩きたいものですね!

ただ、残念ながら夫婦とも膝が悪く、今は長距離を歩ける状態にありません。

柳川の老舗「若松屋」に予約を入れておきました。
すぐに座敷に案内され注文です。お勧めに従い「うなぎせいろ」を注文。

私は「ムツゴロウの煮しめ」も注文し、ビールを頂きました。

ムツゴロウを食べるのは初めてです。
もう煮しめられて「真っ黒」です。頭からかじって「〇×?」です。
 ・メッチャ骨が固い
 ・ほとんど食べるところがない
ということで「しゃぶる」だけで諦めました。

せいろ蒸しが出てきました!
ご飯の上にうなぎを置き、タレをたっぷりかけて「蒸しあげる」もので、持っちりしていて濃厚です。

ただ、関西の「焼きこんでパリッとしたうなぎ」に慣れていると、かなりしつこい味です。

流石うなぎは美味しいのですが「かば焼きにすればよかった」というのが乾燥です。

郷に入れば郷に従えと言うけど、次はかば焼きにします。

食事の後、北原白秋の生家を見学です。

白秋の生家は「造り酒屋」でしたが、城が焼失した大火で、造り酒屋も焼失。
再建する余力もなく廃業し、白秋は20歳で東京へ移り住んでいます。

白秋、山田幸作と親交が深く、数多くの作品を残しています。
ただ「朝ドラ・エール」を意識して、白秋の詩に古閑裕二氏の曲を付けたものが多く展示されていました。
しかし、これは古閑氏の片思いで「白秋の詩に勝手に曲を付けた」というのが、本当のところでしょう。

周りは何処も「北原姓」で、ここでは多い姓だったのですね!

数件で土産を購入し、本来の目的地「南阿蘇」へ向かいます。

九州道から降りて、阿蘇へ向かう道を走る。
風景は全く変わってきて、この一帯全てが観光地(あるいは別荘地)であることが分かる。北海道を走るにも似た雰囲気でした。

道中、コンビニやGSも多く、何かあっても「安心」でした。

16時に「休暇村南阿蘇」に到着。正面に阿蘇六岳のうち、高岳と根子岳が見える、良いビューです!

検温と消毒を済ませて、チェックイン



休暇村ですから、部屋は「普通」です。コンセントがたっぷりあるのが嬉しいですね!
普段通り配線をして、PCや充電器、更にシーパップをセット。それから「温泉」です。

温泉成分は、ナトリウムイオンが殆どです!
まことに体温まる温泉でした、私は滞在中に6回入浴しました。

食事は1階レストランでバイキング。食べるとき以外はマスク着用で、料理を取るときは「手袋着用」です。

バイキングのほかに「冬の特選三品」を、予めオーダーしていましたが、これは全く不要でした。

バイキングは、コーナーごとにシェフが陣取り「造りたて」のサービスです。
 ・味噌田楽
 (地元の有名料理)
 ・赤牛のステーキ
 (地元の有名料理)
 ・天ぷら
バイキングで食べたのは写真の分だけ。特選三品があるので、食べられるはずもない。お陰で赤牛ステーキを食べ損ねました。

すき焼きのタレについていた自然薯。これをご飯にかけて食べました。

実を言えば、お昼に食べた「うなぎのせいろ蒸し」がこたえていたのです。
折角の「料理の山」を前に、多くを残すことになりました。

朝が早かったので、早々と休みました。
しかし、夜中に「腹痛で苦しむ家内」の起こされました。
きっと食べ過ぎで消化器に炎症が起きたのでしょう。
手持ちの薬を飲んで少し休まったようでした。


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