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Profile roots ふるさとの祭り 歩いて暮らせる街つくり
祭り
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現在の大浜港
往時を偲ぶものはなにも無い

氏神様
ここだけは400年前も変わらない

窓の外から祭囃子が聞こえる。
10月10日「体育の日」…昭和39年、東京オリンピックが開かれたことを記念し祭日となる。この日は私の初恋記念日とも重なる。通学に片道2時間かかる私は、開会式を見たくて高校を休もうとするが、窘められて彼女の家でそれを見た。彼女の家を初めて訪問した日でもある。翌年、私は大阪に出て「初恋」は終わる。

私の田舎は三河の国である。本能寺の変で辛くも難を逃れた家康が、本国に逃げ帰った港が「我がふるさと」である。
港に面して小さな社があり、今も昔も人口千人余りの小さな世界の「氏神様」となっている。
なぜか、ここにだけ「山鉾」がある。祇園祭に出しても引けを取らぬ立派なもので、戦国時代家康の懐を潤わした国際貿易港の富の名残であろうか?山鉾には「からくり人形」があり、高山のからくり人形に伍しても決して見劣りしない。からくり人形の多くは体の一部を隠し操作するのが普通であるが、田舎の人形は「乱杭」と呼ばれ、杭の上を歩きまわる「離れ業」をやってのける。文字通り「離れ業」で空中を歩く人形はここだけと聞く、県の重要無形文化財の指定を受けているが「国」の指定でないのが不満である。(
991204写真追加

ルーツ「母」
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祭囃子から田舎を思い出し、自分のルーツへと思いを馳せる。
母は気位の高い人であった。「高松家」の家系に対して、必要以上にプライドを持っていたように思う。勿論、母は高松家に嫁いだに過ぎない。その割には実家のことを口にすることは少なかった。
母は信州松本に生まれ、東京で育ち、松本にある「女学校〈なかなか名門らしい…母の自慢話の一つであった)」を卒業。軽井沢で電話交換手をした後、田舎に嫁いだ。幻の東京五輪の「短距離強化選手」であったことも自慢であった。

しかし、母方のルーツとなると実に心もとない。祖父〈母の父親〉の時代、松本で「革商」を開業するが、それ以前は「マタギ」であったようだ。マタギの実態は小説でしか知らないが、猟を生業とし山で暮らす民として知られ、里とは隔絶した暮らしをしていることが多いようだ。本によっては「被差別民」として描かれることもある。場所は島崎藤村の描く『夜明け前』の舞台である。母方のルーツが被差別民であったとしても私は驚かない。


田舎で生まれ育った私は「被差別民」を知らずにすごした。これは幸せである!おかげで差別意識を持たずにすんだ。
大阪に出て「改良住宅」と称する仕事を随分した。意味が分からず、先輩に尋ねたら「部落」の住環境を改善するための住宅建設だと説明された。私が、部落のことを知った初めての経験であった。

部落の歴史は古いが「いつ頃、何故できた」のか定かではない。賤民と呼ばれ「人間以下の階級」とされた。奴隷制度の無い日本でなぜのこような制度ができたか不思議である。時には「くぐつ」とも呼ばれ「太平記(南北朝)」にも登場するから、相当古くからあるようだ。遊芸に秀で(源義経の妻静御前も「白拍子」と呼ばれ、くぐつと思われる)、欧州におけるジプシーと共通するものを感じさせる。江戸時代は刑場の下働きをしており、庶民に蔑まされた。明治の御代を迎え、法律上「賤民」はなくなるが、戸籍からその制度が消えるのは、戦後も20年以上経過してからである。と、言って人間であることに代わり無い。まったく理不尽な差別と言える。

国籍が違うことによる差別もある。田舎でこの経験も無いため「差別」を感じること無く育った私には、韓国や朝鮮籍の友人が結構いる。ただ、部落民にしろ彼らにしろ「群れ」を作り、同化を拒んでいる。外国に旅しても「○○人街」が多くあり、同化を拒む傾向が見られる。おそらくアイデンティティーが同化を拒むと考えられるが、島国育ちの私にはなかなか理解できないでいる。


ルーツ「父」
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父方のルーツはもっと不可解である。旧家として遇されることが多いが、そんなに歴史があるわけではない。

小学校6年生の頃、仏壇に興味を持った。門徒は「財産の半分を仏壇で持て」と言われ、豪華な仏壇が多いことで知られる。田舎の仏壇はひときわ見事であった。田の字に並んだ和室のその奥に一段高い「仏間(文字通り部屋になっていた)」があり、聳えるように仏壇があった。仏壇は、私にとって「魔法の箱」であった。至るところに「隠し引出し」があり、思わぬ宝物を見つけたりする。
先代の「へそくり」を見つけたときなど家族中が狂喜した。戦前のお札が新品で束になり見つかったのである。中には200円札といったキワモノもあり、骨董屋に持ち込んで我が家の家計を潤した。
そんな中に「過去帳」があった。我が家のルーツを探る貴重な資料である。ただ、伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受け、過去帳は失われる。私の記憶が唯一の記録となった。
それによると、高松家初代「平六」は慶応年間の生まれである。江戸時代末期の生まれで、とても「歴史ある家系」とは言い難い。父「平六(奇しくも初代と同名)」は7代目、前年亡くなった兄が8代目となる。


実家は明治時代、塩田で財を成したと言われる。
時間的に考えれば、初代または2代目「平八」の業績と思われる。しかし「塩田」を開くような資力をどこから得たのであろうか?過去帳では突然「初代・平六」で始まり、それ以前のことはまったく分からない。苗字帯刀が許されていた形跡があり、しかるべき家の分家と考えるのが素直そうである。
いつ、塩田事業から手を引いたのか定かではない。しかし、先見の明はあったらしく、その後手広く商いをしたようだ。戦前、広大な農地(不在地主として農地改革で没収)や、漁業権を有し、トラックや漁船も所有していた聞いている。また「仏法僧」の泣き声で知られる愛知県の蓬莱山にマンガン鉱(兵器を作るのに不可欠なレアメタル)の鉱山も所有していた。

本業は「酒袋」の製造であった。発酵したモロミを絞って酒ができる。この「絞る」時に使用するのが酒袋である。二重織の酒袋(ノウハウ)を作れるのは当時全国で我が家だけであったそうである。そのため全国から引合いがあり、その利益で「家作が毎月1軒建った」という。誰が「二重織の酒袋」のノウハウを作ったのか記録が無いが、6代目(金次郎)の頃ではないかと思う。私の通った小学校に6代目金次郎の胸像があった。おそらく、小学校に多大な貢献をした証であろう。
倒産前まで軽井沢に別荘があり、父母はここで恋に落ちたのかもしれない。この頃が高松家の絶頂期と言えそうである。近隣は高松性ばかりである。宛名が不明確な郵便は全て我が家に届くほどであった。

いつ誰が付けたのか分からないが『お宝さん』の屋号で呼ばれていた。
屋号から見ても、かって成り金であったことがうかがわれる。ただ、月日を経てそれなりに尊敬も得ていたようだ。没落後も「お宝の息子です」と言えば絶大な信用を得られた。
僅か100年で「栄枯盛衰」をしたことになる。その間の伝承はあるものの記録として残っていない。全てが「………のようだ」で終わる。いかにも成り金らしい話ではないか。いやはやとんだルーツになってしまった。私の時代を入れても150年ほどに過ぎない。これでは歴史として語ることは無理なようだ。


余談である。
「ご出身は?」と尋ねられると「愛知県です」と答える。判で押したように「名古屋ですか」と断定される。とんでもない!私は三河の海辺の田舎町出身です。
愛知県は尾張と三河の二国が合わさってできている。文化はまるで違い、混同されるのは三河人も尾張人も迷惑であろう。尾張は、織田信長・豊臣秀吉の二傑を生み京を目指した。三河は徳川家康を生み「江戸」を創設している(そのくせ私は秀吉ファンである)。当時、関東は未開の土地で三河衆を引き連れ、江戸を作り上げている。つまり、江戸文化の根っこは三河にあり、関東と文化を共有している。(関東とは、味付けや方言に類似性がある)

我が家が「塩田」で財を成したことを奇異に思われる方があろう。近くに『吉良』がある。忠臣蔵の敵役「吉良上野之介」の領地である。---浅野ご乱心---の理由に「良質な塩の作り方」説があるように古くから塩の産地である。
吉良上野之介の名誉のために申し上げるが、地元では「大変な名君であった」と言い伝えられている。余談になるが「浅野様ご乱心」の本当の理由は分かっていない。研究によれば、精神病を患っていたようで、何も相手が吉良でなくても発狂した可能性が高いそうだ。宮部顕一郎氏の小説「47人の刺客」が案外本当のところかと思っている。


さらに余談。
司馬遼太郎氏の話によれば、県名と県庁所在地名が異なるところは「明治維新に反抗したところ」と相成るそうである。
ならば愛知県は不思議なところである。家康により御三家が作られる。ポスト家康を巡り対立が起き、それが尾を引き一度も尾張から将軍を出してはいない。江戸時代300年を通じて 尾張徳川家は常に「アンチ徳川幕府」の旗頭であった。明治維新においても尾張徳川は、いち早く討幕側につく。その証拠に、名古屋には「徳川美術館」があり、尾張徳川家の財宝(美術品)が保存展示されている。他の徳川家は討幕側の略奪の対象となり、尾張ほど美術品を残してはいない。

一向一揆の本拠となった西方寺。高松家の檀家寺で、父の葬儀はここで行われた

991204追記1
故郷に三河一向一揆の本拠地となった寺がある。
城郭作りで「これなら篭城戦が出来る」と感じさせる構えである。本来はここが高松家の檀家寺であるが、墓地用地が狭いため隣の禅宗の寺に我が家の墓がある。父が亡くなった時、兄と二人で墓石を作り替えたが、それまでは砂岩で作られた墓が七つ八つ並んでおり、風化が進んで墓碑銘も読めなかった。「お宝さん」と呼ばれた財力と何ともアンバランスな出来事である。おそらく、墓地墓石とも成り金ゆえの遠慮があったのであろう。
991204追記2
間もなく兄の3回忌がやってきます。高松家の9代目は空白です。
早くに故郷を出た私には「寂しくはあっても、口出しできない」ことです。
それより、私自身が「ルーツ」となって、子供たちの歴史の始まりになるのでしょう。

伊勢湾台風
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いせわん‐たいふう【伊勢湾台風】(広辞苑より)
1959年(昭和34)9月26日潮岬付近に上陸。名古屋の西から富山湾を経て北上、三陸沖に抜けた超大型台風。伊勢湾沿岸の高潮による被害を中心に、全国の死者・行方不明者約五千人
 
誰にでも---あれを機に俺の人生が変わった---と思う原体験があるのではないでしょうか?私にとってそれは『伊勢湾台風』でした。

いきなり余談です。
阪神淡路大震災に罹災し、東京に引っ越して『地下鉄サリン事件』の被害者となった方がいらっしゃいます。まるで気の毒を絵に画いたような出来事です。
私も、阪神淡路代震災と伊勢湾台風の両者を体験すると言う、数少ないうちの一人だろうと思います。ただ、阪神淡路代震災は震源から50km離れ、断層の軸線から外れていたことから「食器が割れる」程度の被害ですんでいます。伊勢湾台風も、最大の被害地「蟹江」から海上直線50kmほどなのに地形の違いで、僅かな死者で済んでいます。


伊勢湾台風から6年前、三河湾を襲った13号台風があります。局地的に被害を出したものの歴史に残るような台風ではありません。
私の故郷は『玉津浦』の名で知られ、青松白砂が美しい愛知県随一の海水浴場でした。しかし13号台風で美しい海岸線を捨て、海の猛威から身を守るため堤防を築きました。風景は失ったものの『安心』を手に入れた筈でした…
ラジオから台風情報が聞こえてきます、後に『伊勢湾台風』と名付けられた超大型台風です。大きな台風だからと雨戸を釘で止め、風に対する準備を着々としていました。7時頃から風雨が強まり、まるで『オモチャの家を子供がいたぶる』ように揺れだしました。「どうも普通の台風と違う…」恐怖が顔に出てきます。そのとき、床下に水が侵入してきたのです。
「そんなバカな!あの堤防はどうした」
堤防はどこも崩れていませんでした。伊勢湾台風の潮位が、あっという間に堤防を越えたのです。余りの水勢に、家の中から窓を打ち壊し避難路を確保したいのですが、風に備え補強したのが裏目に出てしまいましたいます。やっと外へ出たときは、もう胸まで水が来ています。瓦は枯葉のように舞っています。あらゆる物が濁流となって流れる中、高みを目指して避難しました。まさに『命からがらの逃避行』です。助かるまで気付かなかった傷が体中にありました。

台風一過!抜けるような青空が広がる翌日、我が故郷が『一望に見渡せます』
風速計を振切ったという台風は、将棋倒しのように家々を薙ぎ払い『視界を遮るものはなし』と言ったところです。級友の死亡も耳に入ってきます、昨日まで新聞配達をしていた仲間の死亡も知りました。早くも自衛隊が出動し災害救助が始まりました、自衛隊に信頼感を覚えた初めての体験です。

昭和27年、家業が破綻し和議を整えました。
その返済に一家一丸となって邁進し、光明が見え始めていました。途中に始めた八百屋があたり、返済も順調に進んだことから逆に融資を受け、八百屋を拡張したばかりのところに伊勢湾台風でした。店は流失し借金だけが大きく圧し掛かったのです。光明は消えうせ、呆然とする思いです。
私は、高校進学を諦め働こうと思ったのですが『父にいさめられ』進学しました。しかし、受験直後に入学金を自分で稼がねばなりません。そんな多難な高校時代の幕開けとなりました。
私の高校時代は『スーパーマン』でした。
早朝牛乳配達のアルバイトをし、6時5分の電車で登校、朝のクラブ活動に参加。授業が済めば部活をして、帰りに設計事務所にバイトに行きました。高校3年の時文科系最大規模に発展したクラブのキャプテンを勤め、大学受験に忙しい友人に代わり家庭教師のバイトもしました。睡眠時間は4時間。高校時代のバイト収入が2万円、就職して初任給が18000円でした。『なんや就職したら収入が減るや』と思ったことを鮮明に覚えています。
親から受けられる恩恵は『住処の提供』だけで、学費・通学費・教材費・被服費・食費の全てを稼がねば高校生活を続けられない境遇でした。しかし、わが身を不幸と思ったことは一度もありません。


私は大学にいっていません。それが心のどこかに『拘り』として残っています。
勉強時間は『授業中』以外ある筈もなく、私にはそれが全てでした。お金がなくてノートも買えず、メモは一切取りませんでした。習い性となり、今でもメモ取る習慣があありません。それでも、そこそこ成績優秀で、学校も親族も私の進学を勧めてくれました。しかし、そんな余裕などないことは誰よりも私が知っていました。おそらく、あの『伊勢湾台風』がなかったら私は大学にいっていただろうと思います。


42歳の時、1浪した息子が大学進学を果たしました。その姿を見て、大学を体験したくなりました。何の準備もなくK大学を受験しました。
あれから24年…「受験さえすれば合格出来たはず」と言う思いを、試すことに成功しました。バブルと重複し、学業を続けることは出来ませんでしたが『拘りを消す』ことが出来ました。伊勢湾台風は、私にこんな置き土産を残したのです。