父方のルーツはもっと不可解である。旧家として遇されることが多いが、そんなに歴史があるわけではない。
小学校6年生の頃、仏壇に興味を持った。門徒は「財産の半分を仏壇で持て」と言われ、豪華な仏壇が多いことで知られる。田舎の仏壇はひときわ見事であった。田の字に並んだ和室のその奥に一段高い「仏間(文字通り部屋になっていた)」があり、聳えるように仏壇があった。仏壇は、私にとって「魔法の箱」であった。至るところに「隠し引出し」があり、思わぬ宝物を見つけたりする。
先代の「へそくり」を見つけたときなど家族中が狂喜した。戦前のお札が新品で束になり見つかったのである。中には200円札といったキワモノもあり、骨董屋に持ち込んで我が家の家計を潤した。
そんな中に「過去帳」があった。我が家のルーツを探る貴重な資料である。ただ、伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受け、過去帳は失われる。私の記憶が唯一の記録となった。
それによると、高松家初代「平六」は慶応年間の生まれである。江戸時代末期の生まれで、とても「歴史ある家系」とは言い難い。父「平六(奇しくも初代と同名)」は7代目、前年亡くなった兄が8代目となる。
実家は明治時代、塩田で財を成したと言われる。
時間的に考えれば、初代または2代目「平八」の業績と思われる。しかし「塩田」を開くような資力をどこから得たのであろうか?過去帳では突然「初代・平六」で始まり、それ以前のことはまったく分からない。苗字帯刀が許されていた形跡があり、しかるべき家の分家と考えるのが素直そうである。
いつ、塩田事業から手を引いたのか定かではない。しかし、先見の明はあったらしく、その後手広く商いをしたようだ。戦前、広大な農地(不在地主として農地改革で没収)や、漁業権を有し、トラックや漁船も所有していた聞いている。また「仏法僧」の泣き声で知られる愛知県の蓬莱山にマンガン鉱(兵器を作るのに不可欠なレアメタル)の鉱山も所有していた。
本業は「酒袋」の製造であった。発酵したモロミを絞って酒ができる。この「絞る」時に使用するのが酒袋である。二重織の酒袋(ノウハウ)を作れるのは当時全国で我が家だけであったそうである。そのため全国から引合いがあり、その利益で「家作が毎月1軒建った」という。誰が「二重織の酒袋」のノウハウを作ったのか記録が無いが、6代目(金次郎)の頃ではないかと思う。私の通った小学校に6代目金次郎の胸像があった。おそらく、小学校に多大な貢献をした証であろう。
倒産前まで軽井沢に別荘があり、父母はここで恋に落ちたのかもしれない。この頃が高松家の絶頂期と言えそうである。近隣は高松性ばかりである。宛名が不明確な郵便は全て我が家に届くほどであった。
いつ誰が付けたのか分からないが『お宝さん』の屋号で呼ばれていた。
屋号から見ても、かって成り金であったことがうかがわれる。ただ、月日を経てそれなりに尊敬も得ていたようだ。没落後も「お宝の息子です」と言えば絶大な信用を得られた。
僅か100年で「栄枯盛衰」をしたことになる。その間の伝承はあるものの記録として残っていない。全てが「………のようだ」で終わる。いかにも成り金らしい話ではないか。いやはやとんだルーツになってしまった。私の時代を入れても150年ほどに過ぎない。これでは歴史として語ることは無理なようだ。
余談である。
「ご出身は?」と尋ねられると「愛知県です」と答える。判で押したように「名古屋ですか」と断定される。とんでもない!私は三河の海辺の田舎町出身です。
愛知県は尾張と三河の二国が合わさってできている。文化はまるで違い、混同されるのは三河人も尾張人も迷惑であろう。尾張は、織田信長・豊臣秀吉の二傑を生み京を目指した。三河は徳川家康を生み「江戸」を創設している(そのくせ私は秀吉ファンである)。当時、関東は未開の土地で三河衆を引き連れ、江戸を作り上げている。つまり、江戸文化の根っこは三河にあり、関東と文化を共有している。(関東とは、味付けや方言に類似性がある)
我が家が「塩田」で財を成したことを奇異に思われる方があろう。近くに『吉良』がある。忠臣蔵の敵役「吉良上野之介」の領地である。---浅野ご乱心---の理由に「良質な塩の作り方」説があるように古くから塩の産地である。
吉良上野之介の名誉のために申し上げるが、地元では「大変な名君であった」と言い伝えられている。余談になるが「浅野様ご乱心」の本当の理由は分かっていない。研究によれば、精神病を患っていたようで、何も相手が吉良でなくても発狂した可能性が高いそうだ。宮部顕一郎氏の小説「47人の刺客」が案外本当のところかと思っている。
さらに余談。
司馬遼太郎氏の話によれば、県名と県庁所在地名が異なるところは「明治維新に反抗したところ」と相成るそうである。
ならば愛知県は不思議なところである。家康により御三家が作られる。ポスト家康を巡り対立が起き、それが尾を引き一度も尾張から将軍を出してはいない。江戸時代300年を通じて 尾張徳川家は常に「アンチ徳川幕府」の旗頭であった。明治維新においても尾張徳川は、いち早く討幕側につく。その証拠に、名古屋には「徳川美術館」があり、尾張徳川家の財宝(美術品)が保存展示されている。他の徳川家は討幕側の略奪の対象となり、尾張ほど美術品を残してはいない。
一向一揆の本拠となった西方寺。高松家の檀家寺で、父の葬儀はここで行われた |
991204追記1
故郷に三河一向一揆の本拠地となった寺がある。
城郭作りで「これなら篭城戦が出来る」と感じさせる構えである。本来はここが高松家の檀家寺であるが、墓地用地が狭いため隣の禅宗の寺に我が家の墓がある。父が亡くなった時、兄と二人で墓石を作り替えたが、それまでは砂岩で作られた墓が七つ八つ並んでおり、風化が進んで墓碑銘も読めなかった。「お宝さん」と呼ばれた財力と何ともアンバランスな出来事である。おそらく、墓地墓石とも成り金ゆえの遠慮があったのであろう。
991204追記2
間もなく兄の3回忌がやってきます。高松家の9代目は空白です。
早くに故郷を出た私には「寂しくはあっても、口出しできない」ことです。
それより、私自身が「ルーツ」となって、子供たちの歴史の始まりになるのでしょう。
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